2026年5月23日、御家元先生より拝受した十徳を身にまとい、京都黄檗山萬福寺にて開催された全
国煎茶道大会に参加いたしました。
その日は、お客様として席に入り、童子を務め、また水屋でも手伝いをしながら、朝から晩まで煎
茶道の世界の中を歩み続ける一日でした。夜には第69回全国煎茶道大会懇親会にも出席し、その賑わ
いと忙しさの中でふと、自分が初めて煎茶道を学び始めた1996年の頃を思い出しておりました。
三十年。
長いようでもあり、また一席の茶のように、振り返れば瞬く間でもあります。学び始めた頃の私は、
何よりも「正しさ」を求めていました。急須を持つ角度、湯を注ぐ高さ、茶碗の位置、身体の姿勢、
そして一つ一つの所作が規矩に適っているかどうか。当時は、点前が正確でありさえすれば、それで
「修得した」と思っていたのです。
しかし年月を重ねるうちに、本当に大切なものは動作そのものではないのだと、少しずつ気づくよ
うになりました。一挙手一投足の中で、身体と呼吸、そして心の調和が取れてゆくこと。湯の音に耳
を澄まし、茶葉がゆっくりと開いてゆく気配を待ち、茶湯が出来上がるまでの静かな間を味わうこ
と。煎茶道とは、何かを急いで完成させるためのものではなく、その過程の中で静けさを学ぶ道なの
だと感じるようになりました。
また、長くこの道を歩む中で、煎茶道とは決して一人で完成するものではない、ということも深く感
じるようになりました。
一席の茶会の背後には、多くの人々の支えがあります。席主だけではなく、童子、水屋、受付、道
具の準備や片付けに携わる方々、それぞれが互いに気を配り、譲り合い、支え合いながら、一つの場
を作り上げてゆきます。
目立つことはなくとも、誰かが静かに動き、誰かが先に気づき、誰かが陰で支える。その積み重ね
によって、一席の茶会に流れる空気や美しさが生まれているのだと思います。
特に全国大会のような大きな茶会においては、そのことをあらためて強く感じます。多くの方々が惜
しみなく力を尽くし、それぞれの役割を誠実に務めることで、初めてあの静かな美しい時間が成り立
っているのです。
茶会とは、単に茶を点てる場ではなく、人と人とが心を合わせ、ともに一つの美しい瞬間を創り上
げる営みなのだと、近年ますます感じるようになりました。
2002年に教授資格をいただいてからは、また別の学びが始まりました。人に茶を教えることは、自
分で茶を淹れることよりも、はるかに難しいということです。人にはそれぞれ異なる気質があり、異
なる感性があり、茶への感じ方もまた異なります。
その中で次第に、「教授」とは単に技法を伝えることではなく、一盌の茶を通して、その人が少し
ずつ自分自身と向き合ってゆく時間を支えることなのだと思うようになりました。
この三十年の間には、忙しさも、迷いも、立ち止まる時間もありました。時には、自分がこれから
もこの道を歩み続けられるのかと、自問することもありました。
それでも、再び茶席に座り、湯の音を聞き、茶の香りに触れるたびに、心は静かに整ってゆきま
す。そして今、ようやく感じています。煎茶道が最後に修習するものは、技ではなく、自心なのだと
いうことを。
人は歳月の中で、少しずつ茶によって育てられ、また変えられてゆくのだと思います。
近年、さらに強く感じることがあります。現代社会の中で煎茶道を学び続けるということは、単に古
い形式を守ることではない、ということです。
効率や速度が優先される時代の中で、一盌のために湯を沸かし、静かに茶葉の開く時間を待つこ
と。人と向き合い、季節を感じ、「間」を大切にすること。その一つ一つが、現代人が少しずつ失い
つつある感受性や精神性を、静かに取り戻してゆく営みなのではないかと感じています。
だからこそ、煎茶道を受け継ぐ者には、単に技術を継承するだけではなく、この静けさや美意識、そ
して人と人との温かな関係性までを、次の世代へと手渡してゆく役目があるのだと思います。
今回拝受した十徳も、私にとっては単なる資格や立場の象徴ではありません。むしろそれは、これ
までの年月への感謝であり、そしてこれから先もなお、謙虚に、静かに、一席一席の茶と向き合いな
さいという、ひとつの戒めのようにも感じられます。
黄檗山萬福寺の草木には、三百七十年前に渡来した隠元禅師の気風が、今も静かに息づいていま
す。十徳をまとい、その境内を歩きながら、ふと感じました。
まるで歳月からの便りを受け取ったような気がいたしました。
そしてこれからもまた、多くの方々とのご縁に感謝しながら、一席一席の茶を大切に、静かに歩み
続けてゆきたいと思っております。
中国総支部長 黄秀偉 (Alice黃瀟葦:)
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