先日の北九州旧藏内邸観月祭茶会でお世話いただきました光畑様からご感想の手紙を頂戴しましたのでご紹介させていただきます。
煎茶の里があっていい
一般社団法人豊前国小笠原協会理事 光畑浩治
令和五年(二〇二三)秋、福岡県築上町「旧蔵内邸(国指定名勝)」で、中秋の名月観月茶会が開かれた。公益財団法人小笠原流煎茶道の小笠原秀邦家元嗣による厳かな茶会は、九州総支部の同門により、月明かりの下で厳粛な儀式になった。一〇〇余名の出席者が五席に別れ、案内され、香で浄められ、縁起良く飾られた文人華、日本一の八女の星野村の玉露と、名月にちなんだ和菓子で喧騒を忘れ、心ゆくまで観月会を愉しむ時が持てた。
旧蔵内邸は明治から昭和にかけて筑豊の炭坑経営で財を成した蔵内家三代(次郎作・保房・治郎兵衛)の本家住宅で贅を尽くす「凜」とした「煎茶様式」の大邸宅とされる。
茶は、粉末茶を使用する「抹茶道」と葉茶を急須で淹れる「煎茶道」がある。
煎茶は、インゲン豆で知られる中国の禅僧・隠元隆琦(一五九二~一六七三)が、寛文元年(一六六一)に京都宇治の黄檗山萬福寺を開創、煎茶などの中国文化を導入した。後、高遊外売茶翁(一六七五~一七六三)が、茶を売りながら禅や人の生き方を説き「煎茶道」を確立したとされる。彼は「通仙亭」という庵を構えた。そこには池大雅、伊藤若冲、上田秋成、富岡鉄斎などの文化人が集った。そして「売茶翁に一服接待されなければ一流文人とは言われない」などの風土まで生まれたようだ。さらに煎茶精神は、江戸中期の文人・頼山陽(一七八一~一八三二)を介して幕末の尊王の志士などにも影響を与えたとされる。
(正客:光畑浩治様)
煎茶は抹茶のように茶室や道具にこだわることなく、自由で闊達な精神や風流を好む文人墨客の間で流行したようだ。多くの文人らに詠まれた句や歌が遺る、それを掬う。
棚経の僧に煎茶をすすめけり 海野勲
茶にまさる物なしといふは我ならず声そろへて言ふわが舌わが喉 窪田空穂
豊前国で歴史を刻んだ宇都宮家は、口伝によると「抹茶よりも煎茶がいい」と豊前市の求菩提山はじめ周辺の山野に茶畑を広めたとされる。その宇都宮の流れを汲む蔵内家の「奥屋」が煎茶式なのも納得できる。また国内に三十を超す煎茶流派があると聞くが、観月会が「素晴らしい。美味しい、お茶会でした」の感想で「煎茶教室を」の声。
そこで小笠原が治めた豊前国ましてや「煎茶心」ある宇都宮の地で小笠原流煎茶の「道」と「理」の学び舎の誕生は相応しい。自然豊かな築上が「煎茶の里」として、これからの時代を歩みだすのもいい。
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